お酒と大叔母

5月30日(土)の夕方に、星見をしていただきまして、その後の初回の瞑想を行いました。

瞑想にアルコールはよろしくないのは理解しているものの、日々の娯楽が食と飲酒とマンガと爛れ切っているので、いきなりやめることもできず、飲酒の後に瞑想。

実感として飲酒は瞑想に向かないですね。ダメだよと言われても、経験しないと納得できない愚者のため、実際の経験となったのは良かったと思いましょう。

しばらくお酒はやめられそうにないので、そんな自分を甘やかしつつ…。

 

・心拍が落ち着かない。

・呼気がお酒臭くて不快。

 

飲んだ量にもよるのだと思いますが、この2点だけでもだいぶ害悪かなと。

 

知識を漁っていた時に、瞑想や修行の方法に「呼吸法」がそこかしこにありました。

呼吸法そのものもいろんな方法があるようですが、「呼吸」が目的というよりも、「呼吸によるアプローチ」先によっていろいろな呼吸法がある印象です。

 

人間の神経回路には、手足を動かすといった、意識して操作可能な脳脊髄神経と、内臓が動いているといった、意識して操作することが難しい自律神経があるらしく、脳脊髄神経で制御可能な「呼吸」を使って、自律神経に影響を与えているのかな、と。

 

それをアルコールが邪魔をするっぽいですね。

アルコールというか、「過度な」アルコールかな。

 

 

昨日は20分ももたずに、泣いて瞑想を中断しました。

先日私の祖母が亡くなったのですが、なんだか彼女のことよりも、5年ほど前に亡くなった大叔母(父方の祖母の妹)のことが思い返されて、感傷的になりました。

 

大叔母は横浜生まれの横浜育ち、山手のお嬢様として生きてきたらしく、私の記憶に残る彼女は穏やかな女性でした。

彼女はシスターをしていて、良い意味で宗教的な、話し方もゆったりとした人で、私としては安心と不安を抱えながらも、好きな親戚でした。

宗教的な、というと少し差別的な表現になってしまうかもしれないのだけれど、なんというか独特な思慮深さというか、何を考えているのか分からなさが混在している感じね。

大の仲良し、というような関係ではないものの、私を傷つけない人であるということで、小さい頃の私は好きだったんだと思います。

 

そんな彼女も亡くなる数年前から病気になり、とうとう治療の施しようがない(もしくは、宗教上か家庭や個人の意思で治療を中断したような話もあったようななかったような)状態になり、病院から家に戻ったところで、私の家族でお見舞いに行きました。

私の父の家系は個人主義が強く、親戚付き合いが薄いため、10年近く私は大叔母に合っていなかったので、正直な話お見舞いに行きたくなかったのですが、断ることもできずに彼女の家に連れていかれました。

 

お家に入って、久しぶりに感じるこの家の匂い。彼女のいる部屋の扉が開いた瞬間に漂う「病人の匂い」

月並みですが、ベッドに横たわる大叔母は、小さく萎れて、「このような姿でごめんなさいね、でも会いに来てくれて嬉しいわ」と笑ってくれたものの、私はどういう顔をすればいいのか分からず、苦笑いの様な顔をしていたと思う。

なんだか、見下してしまっていないか、ということを気にしていた気がする。

特に話すこともなく、5分もしないうちに、部屋を出て、父が彼女の家族と1時間ほど話しているのをぼんやり聞いて、家を後にしました。

 

彼女の記憶として残ってるのは、私が5歳とかそれくらいの時に大叔母が我が家に来た時の場景。

祖母と大叔母がダイニングテーブルで話をしていて、私は机の下にもぐって、大叔母の足をリボンでぐるぐる巻いて縛り付けてるシーン。

縛り付けるといっても、緊縛していたわけではなくて、ゆるゆるした感じですけどね。

幼稚性の緊縛遊びだったのか、なんなのか、自分でもわからず遊んでいたんですけど「あらあら、帰ってほしくないのかしらね」と、緊縛中にも文句も抵抗もせず私の好きにさせていた大叔母が発した言葉で、「ああそういうことなのかも知れないな。」と思ったなぁと思い出させられます。

 

彼女という存在は、彼女の子供達から見たら、私が抱く像とは全く異なるものだと思います。ペルソナというものもありますが、関係性の濃淡によってもまた印象が違うのだと思うしね。

そういう意味では、私は彼女の良いところだけを知っているにすぎないし、本来的な彼女の良いところは知らないのだと思う。

それでも私にとっては彼女の印象はとても強く残っていて、上記の場景を思い出して、瞑想中に嗚咽してしまったわけなのです。

 

罪悪感なのか、恐怖なのか、歓喜なのか全然わからないのですが、感情が高ぶりましたね。

アルコールによる感情の暴走なのかどうか。

それでも嫌な涙ではありませんでした。

自己紹介

30代。

大手企業の契約社員として働いておりましたが、契約期間が絶妙にコロナ禍と相まって、まっとうな人事評価も受けられず、満了クビ切り。

失業保険を取得しながら、いつ再開されるかも不透明な資格試験で起死回生を図るべく勉強をする予定です。

予定というのはまだ全然勉強できていないから。

コロナが来る前、2年以上社内で不倫していたのですが、最後はカットオフ。

連絡つかないまま、何の理由もないまま、何もなかったかのように去られまして。

行為が行為なので、自業自得なんですけどね。しかし2年の歳月をかけて侵食された自尊心に「答えがない」という終わりは強力な劇薬となっていまだに蝕んできます。

その後コロナ禍によって、謂われなき悪口雑言による人事評価であえなく失業。

不倫の件とは別なんですけどね。逆に愛人の方が正社員雇用されてましたので。不倫の件が評価されての結果なら、納得できるんですけどねぇ。それとも違ってなんだかね。

理不尽な評価を受け、社会的な自分はなんともはや矮小で価値のない存在なのだろうかと、なけなしの自己評価/自己愛がボロボロと崩れおちました。

そのボロボロになった自己愛たちは前出の劇薬に今もなお侵されて痛んでおります。

 

逃げ回ってきたツケが一気にきたかしらね、というね。

 

上記のような状態ではあるものの、2年間という歳月によって小さな型に押し込まれていた「れいな」という存在は、今や誰に縛られることもなくなり、よもや300万近い損害賠償請求を受けるようなリスクもなくなりましたので、自由は手に入れました。

自己愛はかわいそうなくらい痛みましたけどね。あと無駄に歳を食いました。

あ、お金にはだいぶ縛られることになっておりますが。

等価交換、ではないけれども、ひとまずいらぬしがらみからは解き放たれました。

それが重要。コロナの功罪。

それがわたし「れいな」です。

 

本題。ブログの趣旨です。

元々オカルトは興味があったので、願掛け程度に面白そうなものには手を出していたのですが、ここのところ急に再熱しました。

一番最初は高校生のころ。中二病が抜けきらぬ私は、本屋で見つけた魔術の実践本を2,3冊購入し、当時気になっていた同級生を対象に、一つの術を行いました。

効果はあり、満願かなってお付き合い。そしてその後長らくストーカーになりました。なかなか大変でしたねぇ…。

落ち着くまで5,6年かかりました。魔術なんて気軽にやるものではないですね。

 

その後もサブカル・オカルトは好きで、定期的にオカルト記事を漁って読んでみたり、魔女になりたいと思ってみたり、アストラル体投射したい、タルパ作りたい、脳科学面白い、とワクワクするのと同時に、美容に気を使ってみたり仕事を頑張ったり、とバランスは保ちつつ生きておりました。

ちなみに、アストラル体投射もタルパもいまだ実現していません。知識はあれどそのための努力はしていないので。

明晰夢に近いことは出来るようにはなったみたいですけど、それも練度は低いです。

 

それと、数年前に10日間のヴィパッサナー瞑想合宿に参加してきました。

この合宿の大変なところは、日程調整もなのですが「外界と一切連絡取れなくなること」なんですよね。。。

マインドフルネスが流行りとして受け居られていた時期だったので、職場の人に説明したところ、まま理解してもらえたのが良かったです。

私の担当の仕事が、合宿期間中にかかっておらず、特に重要なこともないからというのも幸いしました。

母親には「洗脳されるのでは!」と怒られましたけどね。その怒りに対して周到な説明もできないくらい「日程が合うし瞑想興味あるし行っちゃえ!」という気軽で無鉄砲な参加だったので、然るべきなのですが。

 

しかし瞑想を習ったところで、何かが大きく変わるわけでもなく、実践を続けることもないまま、だくだくと努力のできないオカルト好きな30代が出来上がりました。

そして冒頭の出来事となります。

 

なんとかせねばならん、なぜこうなった、あいつらのせいだ

この恨みはらさでおくべきか!

呪ってやる!呪ってやる!

 

ということで、呪符を買ったりしたものの、「人を呪わば穴二つ」ということで、自分の「運」を消費しないといけないことにはたと気がつき、自尊心/自己愛ズタズタの私が人を呪ったところでいかほどの効果が出るものか、また効果が出るほどのことを成し得てしまったら、私の「運」は壊滅状態になるじゃないか、と一時退却。

では魔術とは何ぞや、グリモワールとは、教団とは、カバラとは、占星術とは、密教とは、なんぞやなんぞや。

魔術祭壇用の小物を買いあさり、「運」強化用の護符やパワーストーンを買いあさり、お香やマジカルオイルを買いあさり、知識を得ねばと魔術理論実践教本を買いあさろうとしていました。

 

魔術系の本って絶版本が結構あるんですよね。

今やネットで何でも手に入る時代。「ソロモンの大いなる鍵」の英文訳も読める時代ですし、もっと言えばオカルトを面白がる人が世代的に減り市場自体が縮小しているというのもあるのでしょう。

当然私も実生活の知人には魔術の「ま」の字も言いません。パワーストーンはつけるようになったので、「ふーん、そっち系?」とは思われているでしょうが、自分からは言及しません。

そんな事情もあり、本はもっぱらフリマアプリで検索します。

高いですねしかし。大鍵が2万円以上します。さすがにこれは、、、と当初まっとうな思考でもって閲覧していたんですが、だんだん何度もチェックするうちに「高いけど、絶版だしな」「うーん、知識には必要な値段かもしれぬ」「ほかの絶版本も3万くらいするし、こちらはお買い得なのかな」「あ、さっきの出品者23,000円だったけど、この出品者18,000円で出してる!ん、でもちょっと汚れが目立つな」「きれいな23,000円か、使用感のある18,000円か…!」とほぼ自己洗脳の視野狭窄に陥りかけた時に、星見をしてくださる方の出品を見つけました。

 

このところずっと星見をしていただきたいと思いながら、金銭的理由から断念しておりました。やっていただきたい方も見つかっているのですが、いかんせん2万前後するので…。本の2万と何が違うんだと言われれば、なんとも反論しがたいのですが、やはり2万は2万。失業者の私には高額です。

 

もんもんとしていたところにその方の出品は、何より価格が魅力でした。

即購入。そして即日鑑定。


ここのところの私の興味は「ハイアーセルフ」です。ニューエイジ界隈ではいろいろな言葉でもって定義されているかと思いますが、私には小さな差異はわからないので、「いわゆる」「ハイアーセルフ」という認識です。

占いとは論点がずれる内容でしたが、その方はきちんと受け止めてくださいました。

 

曰く「潜在意識がぐちゃぐちゃ。頭でっかちなので、シンプルに実践しなさい」

 

お恥ずかしい、仰る通り。私は「実践」から逃げ回ってきたので、こうなっています。

「実践」というか、継続的な努力ですね。ちょっとやって分からない部分には蓋をして分かった気になって、飽きて他に興味が移ろいでしまう。

冒頭の実生活の状況、精神的状況、魔術やオカルト以前のお話でした。

 

「地に足つけて、実践せよ」

 

わたしは当初から魔術オカルトに関してのブログをやろうと思っていました。

本を買って、読んで、自分なりに考察して、実践して、まとめて、、、なんてことが出来たらいいなと思っていました。

しかし、まずは実践からという言葉をいただきました。

いまだに多方面に対して興味は尽かず、そのために購入した本が届き始め、積み本化しておりますが、その方とのお約束なので、一旦捨て置きます。

時が来たらまた知識を得るために拾うでしょう。

 

まずは教義や信条をそぎ落とし最もシンプルになったマインドフルネス瞑想の実践から。

このブログはわたし「れいな」の「実践記録」となります。